マティーニショット
まてぃーにしょっと
マティーニショットとは
マティーニショット(Martini Shot)は、その日の撮影スケジュールにおける最後のショット(カット)を指すハリウッド発の現場スラングである。語源は「このショットが終われば、バーに行ってマティーニが飲める」という撮影クルーの願望に由来するとされている。長時間の撮影を乗り越えた先にある解放感と、あと一歩で終わるという現場の士気を高める意味合いを持つ、映像業界ならではのユーモラスな用語である。
正式な技術用語ではなく、あくまで現場のスラング(俗語)だが、ハリウッドの撮影現場では極めて広く浸透しており、アシスタントディレクター(AD)が「This is the martini!」と声をかけるのは日常的な光景である。日本の映像業界では直接的な対応語はなく、「ラスト1本!」「最後のカットです!」という声かけが同等の機能を果たしている。
マティーニショットの語源と文化的背景
マティーニショットの正確な起源は不明だが、いくつかの説がある。最も広く信じられているのは、ハリウッドの黄金期(1930〜1960年代)にスタジオシステムが全盛だった時代、撮影終了後にスタッフがスタジオ近くのバーでマティーニを飲む習慣があったことに由来するという説である。
別の説では、映画プロデューサーや監督が撮影最終日にクルーにマティーニを振る舞う慣習があったとされる。いずれにせよ、マティーニというカクテルが当時のハリウッドの社交文化と密接に結びついていたことが、この用語の背景にある。
また、マティーニショットの「次のショット」を指す用語として「アビー・シンガー(Abby Singer)」がある。これは1950〜60年代にテレビ・映画のアシスタントディレクターとして活躍したアビー・シンガーという人物に由来し、彼が常に「あと2カットで終わりだ」と声をかける癖があったことから名づけられた。つまり、アビー・シンガーは「最後から2番目のショット」を意味する。
具体的な作品での使われ方
ハリウッド映画の撮影現場ドキュメンタリー
マティーニショットという用語は、撮影現場の裏側を描いたドキュメンタリーやメイキング映像でしばしば登場する。たとえば、ピーター・ジャクソン監督の『ロード・オブ・ザ・リング』三部作のメイキングドキュメンタリーでは、ニュージーランドでの過酷な長時間撮影の中、ADが「Martini shot, everyone!」と叫ぶシーンが収められている。クルーの歓声が上がり、疲れ切った表情が一瞬で明るくなる瞬間が映し出されており、この用語が持つ現場の空気感がよく伝わる。
テレビドラマ『30 Rock』での言及
ティナ・フェイ主演のコメディドラマ『30 Rock』(2006-2013年)は、テレビ番組制作の裏側をコメディとして描いた作品であり、劇中でマティーニショットという言葉が使われるエピソードがある。業界用語をギャグの素材として使用し、視聴者に映像業界の文化を紹介する役割も果たしていた。
クエンティン・タランティーノの撮影現場
タランティーノは自身の撮影現場でマティーニショットを特別なイベントとして扱うことで知られている。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019年)の撮影では、最後のショットが終わるたびにクルー全員に拍手を促し、労いの言葉をかけたというエピソードが伝えられている。撮影現場の士気を高めるリーダーシップの一環として、マティーニショットの瞬間を活用した好例である。
マティーニショットにまつわる現場の実態
マティーニショットが宣言されると、現場には独特の空気が流れる。スタッフの集中力が最後のひと踏ん張りに向けて高まる一方で、「早く終わらせたい」という気持ちから焦りが生じることもある。ベテランのADはこのタイミングの見極めに長けており、スタッフのコンディションと残りの作業量を計算してマティーニショットを宣言する。
しかし、マティーニショットの後に追加ショットが発生する、いわゆる「偽マティーニ(False Martini)」も現場ではしばしば起こる。監督が「もう1カットだけ」と言い出したり、テクニカルな問題で撮り直しが必要になったりする場合である。偽マティーニが連続すると、クルーの士気が著しく低下するため、ADは監督と事前に入念な打ち合わせを行い、真のマティーニショットを正確に宣言することが求められる。
類似用語との違い・使い分け
マティーニショットとラストカットの違い
日本の現場で使われる「ラストカット」は、文字通りその日の最後の撮影を意味する実務的な言葉である。マティーニショットは同じ意味を持つが、「仕事の後の一杯」というニュアンスが加わるユーモラスなスラングである点が異なる。
マティーニショットとクランクアップの違い
クランクアップ(Crank Up)は、作品全体の撮影が完了することを指す日本の映像業界用語である。マティーニショットはその日の撮影の最後であり、翌日以降も撮影が続く場合にも使われる。クランクアップは作品の撮影が「すべて」終了する瞬間であり、はるかに大きな節目である。
アビー・シンガーとの関係
前述の通り、アビー・シンガーは「最後から2番目のショット」を指し、マティーニショットの直前のショットである。両者はセットで使われることが多く、「This is the Abby Singer, and next is the martini」という声かけが定番である。
現場での使われ方・ニュアンス
ハリウッドの撮影現場では、1stAD(ファーストアシスタントディレクター)がマティーニショットを宣言する権限を持つ。宣言のタイミングは重要で、早すぎるとスケジュールに余裕があるのに切り上げることになり、遅すぎるとクルーの残業が発生する。労働組合(IATSE)の規定により、撮影時間には厳格な制限があるため、マティーニショットの宣言はスケジュール管理と労務管理の両面で重要な判断である。
日本の撮影現場ではマティーニショットという用語自体は一般的ではないが、海外経験のある監督やスタッフの間では通じる。近年、日本でもハリウッドの現場文化を取り入れる動きがあり、特にNetflixやAmazonなど国際配信プラットフォーム向けの作品では、英語の現場用語がそのまま使われるケースが増えている。